2017年12月5日火曜日

国籍というもの

国際社会では、国籍というものが人を判断する際の一番大きな先入観になっていると思います。もちろん、他にも、人種や宗教、性別という先入観もあると思います。けれども、近代国民国家という制度が生まれてたかだか150年のうちに、人間はアイデンティティを「国」というものに自然と求めるようになってしまいました。

大学院では、同じ国籍のクラスメイト同士がやはり信頼し合っています。もちろん、言語という壁を感じる必要がないので気が楽だということもあるでしょう。でも、同じ国籍同士の信頼関係はそれ以上の親近感を抱くもののようです。実際、僕自身も、第2セメスターから日本人の後輩が来たのですが、彼には親近感を覚えます。

この夏休みに、オーストラリア国内の複数のコンサルティングファームやシンクタンクにインターンシップを打診しましたが、門前払いか返事がないかです。オーストラリア政府からの受注があるので、その際、オーストラリア国籍を持っていないとプロジェクトメンバーに選ぶことができないようです。日本のシンクタンクでも同じ状況はありました。

僕はこの国籍というバイアスに違和感を感じます。各国の憲法が国民の移動の自由を掲げているのに、人間が国から国へと移動する際にはイミグレや滞在ビザなどの検査を受ける必要があるのです。僕は、僕が世界中のどこへ行こうが、僕の勝手だろう、と思うわけです。国籍が違うから仕方ないと考えるのは、近代国民国家制度をただ自明の如く受け入れて思考停止しているだけだと思うのです。

キャンベラでオーストラリア国籍を持たない僕を受け入れてくれたアパートのオーナー、Australian National Internship Programへの参加を認めてくれたANUなど、例外はあるのですが、国際社会で人間関係を構築する際、国籍は依然として大きな障壁です。これを無意識のうちに受け入れるのか、それとも、国籍もひとつの偏見になり得ると意識しておくかは、国際人として活動するうえで重要なことではないかと思います。

人を国籍で判断することは一種の差別だとも考えられませんか?


Source) Google Images

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